
「ジャーナリズムとは何か」というのはまったく興味がない話題なのですが、ご存知のようにそれだけで一冊以上の本が作れるテーマであります。さらに、「ジャーナリスト」とは、「観察し、記録する人」だと思うのですが、大別すると、いわゆるマスコミに属するジャーナリストか、フリーのジャーナリストがという分け方があります。さらに、フォト/ビデオなど、取材の道具の違いによる分け方と、業種やテーマ(観光や科学といったもの)による分類があります。また、それを職業とするかしないかによる区別もあるかもしれません。昨今のブログブームの中でも高品質でジャーナリスティックな文章も散見されますが、それも、当事者が自らを「ジャーナリスト」だ表明し、それに共感してくれる人がそれなりにいれば、ある種の影響力が行使できたり、あるいはビジネスとして成立するという話しになります。もちろん共感する人が一人もいなくても自らをジャーナリストと名乗る自由はありますがカッコ悪いからやめましょう。
ジャーナリズムという言葉には「社会の木鐸として人々を覚醒させ正しく導く」というニュアンスが含まれているんでしょうけど、ジャーナリズムというのが概念としては存在しても実在しないのと同様に、この「木鐸」としての機能というのは本来存在し得ないものでしょう。中立公正な現象など実在しない以上、中立公正な取材などはあり得ないわけです。ある種の思い込みや歪み、そして企てこそが現実のジャーナリズムであり、そこに共感する人が比較的多いか少ないかだけの話です。
私の前の職場で、私の「なんで会社を辞めようとしないのか」という問いに「僕はジャーナリストでいたいからだ」と答えた人がいましたが、大手マスコミの看板がないと取材できない人というのはジャーナリストとしては比較的レベルが低いと考えてよいでしょう。取材とそれをとりまく前後の環境の準備が自動的にセットアップされやすいという居心地のよさが取材活動にバイアスをかけやすいと考えるからです。また「取材はまず現場へ」が基本であると思われているようですが、これは必ずしも正しくないと考えます。現場にかけつけること、あるいは取材対象の当事者に直接会うことは、情緒に流される傾向があり、むしろ現場から離れた膨大な資料の探索が、現場では見えてこない発見をもたらすこともあります。「とりあえずは一刻も早く正確に」という姿勢よりは「関係性を展開してプレゼンテーションできる能力」のほうがよりジャーナリスティックではないかと、特に最近感じるようになりました。
いずれにせよそれは「事実」という言葉で表現されるものなのですが、事実の意味や価値は、観察する人やそれを取り巻く状況によって大いに異なります。事実はそれこそ人の数だけあると言っても過言ではありません。同じ対象でも観察者によって解釈が微妙にズレる。このズレこそがコミュニケーションであり、予定調和したかのような完全なる意見の一致があるとしたらそれはコミュニケーションではなく通信でしょう。おっと、話しがそれた。
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